クリスチャン パートナーズ通信 第15号発行日/1993年1月31日 西カリマンタンとはどんなところ?明けましておめでとうございます。クリスチャン・パートナーズの里子たちも新しい年を迎えたことを遥か偲びつつ通信15号をお読み下さい。里子たちの住む国インドネシアについて、また子供たちの民族・文化的背景などについては、たびたびこの通信でお知らせしてきましたが、新しく会員になられた方も多くなりましたので、復習の意味をこめて再びご範介しましょう。 今回の資料は、パートナーズインターナショナルの本部(アメリカ)からのものです。 里子たちは、西カリマンタン州の州都ボンティアナック市の周辺に住んでいますが・・・ カリマンタン島とは、以前ボルネオ島と呼ばれていた世界で3番目に大きな島で、その3分の2がインドネシアの領土です。 北のほうの3分の1はマレーシアのサバ・サラワク州とブルネイ王国です。このイドネシア領の部分が東・南・中部・西の4州に分割されているのです
西カリマンタン州に人口は250万人といわれ、先住民族であるダヤックと中国糸の住民が多く、その他にはマレー系・アラビア系・インド系の人々やインドネシアの他の島々から移り住んだいろいろな民族的背景の人々がいます。 天然資源は豊富だといわれていますが、大部分が密林に覆われていて通信手段・交通機関がまだ未熟なためコミュニケーションは非常に困難です。 中国系の人々は50万人といわれていますが、1967年に起きたインドネシア共産党による政治的混乱の結果、共産主義中国と繋がりがあるとされて迫害を受け、土地や財産ばかりでなく命まで失う人々が出て、アナック市に逃げて来ました。 親を失った不運な子供たちのなかには、路頭に迷うものも出ました。 パートナーズインターナショナルでは、1972年からインドネシアにむけて文書伝道による宣教を始めましたが、政府の規制が厳しくて中国系の人々に対する宣教はしばしば妨げられました。宣教運動をしている団体は他にも多くあります。 タヤツクの人々について 何世紀も前からカリマンタン島に住んでいる蒙古糸(日本人と同じ)の先住民族を総称してダヤック(Dyak)と呼んでいますが、海岸近くに住む部族や内陸に住む部族など数百もの部族がそのなかに含まれているのです。しかし、後からこの島に移住した人々と区別するのに便利な呼称として使われています。 ダヤックの村は普通川に沿って作られ、水面から5~7メーイトル上の川岸にいえが建っていて一本の木でできた梯子で出入りしています。昔はロングハウスと呼ばれる共同長屋に村全体が住んでいたのですが、今は個々の家が集まって小村落を作っています。 カリマンタン島では島の中心にある山岳地帯から川が四方にむかって流れ海に注いでいます。 密林を歩くことは大変危険で困難ですから、旅行をするにも商業を営むにも、コミュニケーションの手段としてカリマンタンの大動脈なのです。また山々から砂金を運んでくることで川沿いに住むダヤックの経済活動も助けています。 ダヤックの人々は焼畑農業をすることで知られていますが、定住を促進したい中央政府は米や野菜の他にクロープや胡椒のような換金作物を生産するように指導しています。ゴム園や椰子園で雇われて働く人々もいます。 ダヤックの言語・芸術・習慣など 前にも書いたように200以上の部族がいてそれぞれ異なる部族名と言語をもっていますから、その生活様式や習慣は相当に異なります。 しかし現在は中央政府の教育制度も徐々に整って、若い人たちは学校でインドネヤシア語を習いますから、言葉の障筈は少しずつ取り除かれています。 ダヤックの人たちはデザインのセンスに勝れています。活気に満ちた力強い写実的な絵柄を藤蔓(ラタン)を細く裂いた材料で敷物・帽子・籠・袋ものに織りあげます。ラタンの自然色である金色と黒く染めたものとで、神話を題材に複雑で美しいパターンが織りだされています。 ダヤックの宗教 宣教師たちの努力にもかかわらず、ダヤックの人たちは自然界のすべてに精霊が宿っているとの昔からの宗教観からなかなか抜け出せません 。多くの部族が雷神を崇めていますし、雨や川の霊も拝みます。毎年収穫の後に特別なお祭りをして、川の霊を元の住みかへ送り返す習慣も生きています。 ダヤック社会では、巫女が重要な役割をもっています。 村のシヤーマン(宗教的職能者)はたいがい年とった女性で、病気を癒し、儀式で歌い踊ります。シヤーマンはその他に村の歴史を記憶し、語り部としてその知識を若いシヤーマンたちに伝え、彼らを訓練します。 パートナーズインターナショナルの働き人たちは徒歩で、またバイクで何キロも旅をしてこのようなダヤックの村々を訪ねてきました。 船に頼る以外に交通手段のない村もあります。そういう村にいまでは藁葦きの木造の小屋が、礼拝堂としてぬかるみの道の横に建っています。 多くのダヤックが、自分たちの生活が180度変化する経験をしましたし、主による贖いの恵みをはっきりと証しする人々も出てきました。 多くの村で礼拝・教会学校・祈祷会・聖書研究会などが定期的に開かれて、クリスチャンのダヤック村の信仰を育てています。働き人たちもそれらの村を欠かさず訪ねて良い連携を保っています。 ≪事務局だより≫ 草野理事長は、3月23日より30日までシンガポール事務所と ボンティアナック市を訪問予定 インドネシア語ABC(3)理事 松本繁雄
この号では指示代名詞や疑問代名詞を紹介しましょう。 ini(イニ) これは、この。 英語のthisに相当。 itu(イトゥ)あれは、あの。 英語のthat=に相当。 Apa ini?Ini buku.(アパ イニ イニ ブク)これは何ですか。これは本です。 Ini kertas.(クルタス)これは紙です。 Ini pensil.(ペンシル)これは鉛筆です。 Apa itu?Itu meja.(アパ イトゥ イトゥ メジャ)あれは何ですか。あれは机です。 Itu kursi.(クルシ)あれは椅子です。 Itu kantor.(カントール)あれは事務所です。 Siapa ini?Ini Tuan Hassan.(シアパ イニ イニ トゥアン ハッサン)この人はどなたですか。この人はハッサンさんです。 Ini tukang kayu.(トゥカン カユ)この人は大工です(tukang職人、kayu材木) Siapa itu?(シアパ イトゥ)あの人はどなたですか。 Itu abang saya.(イトオウ アバン サヤ)あの人は私の兄さんです。 Itu orang peremquan.(オラン プルンプアン)あの人は女性です。(orang人、peremquan女) Itu orang laki-laki.(オラン ラキラキ)あの人は男性です。(laki-laki男) 上記の例でお判りのように、インドネシア語にはThis is a bookのisに相当する連辞がない。また、疑問代名詞apa?は物や動物の場合に、Siapa?は人の場合のみに使われる。aPa,Siapaの例文をもう少し挙げると、 Apa nama buah ini?(アパ ナマ ブア イニ) この果物の名前は何ですか。 Nama buah ini pisang.(ナマ ブア イニ ピサン) この果物の名前はバナナです。 Apa pekerjaan anda?(アパ プクルジャアン アンダ) あなたの職業はなんですか。 Pekerjaan saya pegawai kantor.(プクルジャアン サヤ プガワイ カントール)私の職業は事務員です。 Siapa nama dia?(シアパ ナマ ディア) 彼の名前は何ですか。 Nama dia Hassan.(ナマ ディア ハッサン) 彼の名前はハッサンです。 Siapa dia?Dia kawan saya.(シアパ ディア ディア カワン サヤ)彼は誰ですか。彼は私の友人です。 buahは果物、色々な種類の果物はbuah-buahan(ブア ブアハン)。Pisangはバナナ。 pekerjaanはkerja(働く)から派生して仕事、職業。kawanは友人。PegaWai.は職員。 kantorは事務所。 上記の例文にあるbuah ini(この果物)、Pekerjaan anda(あなたの職業)等からお判りのように、インドネシア語では修飾語は修飾対象語の後に置かれるのが通常です。 1ebih besar(ルビィ ブサール)より大きい、sangat cantik(サンガット チャンティク)非常に美しいのように、1ebihとsangatはその例外です。 次号ではapa,Siapa以外の疑問詞を引き続き採り上げたいと思います。 里親になって鈴木初代
私は平成4年から国民年金を僅かですが受給されるようになりました。苦難の戦時中激動の時代を生き、健康で65蔵を迎えられた幸いを感謝しております。 9年程前からフィリピンの女児の里親になっておりましたので、この年金でもう一人と思っていました時、この運動を知りました。 そんな折インドネシアを観光で訪れ、豊かな自然の恵みで米も三毛作、果物も豊富な国でありながら、生活は貧しく小学生位の子供達が観光客にまつわり「千円、千円」と叫びながら土産物を売り、バスに群がる様を見て、かつての貧しい日本を見る思いでした。 この子達を幸いにする基は教育であり、政治であるとしみじみ感じました。「十年の計は水を治めよ。五十年の計は木を植えよ。百年の計は人を育てよ。」と言われておりますが、あの廃虚の敗戦から日本が現在の繁栄をもたらした要因の一つは、明治以来の教育に依るところ大だと存じます。 欧米の宣教師の蒔いた教育の種も、忘れられない存在です。私も微々たる小さな種をインドネシアの子供に蒔きたいとこの運動に協力致しました。 クリスマスカードとプレゼントの発送報告 期限までに事務局にお送りくださったカードは14通 プレゼントとして送金のあったもの19件(¥35,000) 以上、シンガポール事務所宛送りました。こ協力を感謝します。 本 ≪マンゴウの実る村から》 内海 愛子著 現代書館1985年¥1500 -アジアのなかのニツポン- 1975-77年の間バンドン〈西ジャワの州都〉に日本語教師として滞在、夫は留学生。
言葉を学んで積極的にインドネシアの人々の生活の中に入っていき、貧富の差・女性の地位の低さ・日本企業の問題から、特権階級として滞在し現地の人を蔑視する日本人同性に対する厳しい批判まで、女性の生活体験に基づいた鋭い見聞記。 残念ながら著書はカリマンタンに行く機会がなかったようであるが、一度だけカリマンタンが言及されている。『Ⅳ アジアの中のニッポン 戦争体験の落差』の章に、1976年4月1日付の新聞《ピキラン・ラセット》からの引用として1944年にカリマンタンでおきた日本軍政による大量虐殺の事が書かれている。 『日本軍に対する大陰謀が暴露されたとの理由で「陰謀の首領」48名が銃殺されたのをはじめ、手あたり次第に逮捕された住民は理由もなく斬首され、その数は2万人にのぼるというのである。 そのため「西カリマンタンには、一世代の知識階級が消滅してしまい、長い間、西カリマンタンには学識ある青年がいなかった」といわれるほど、大規模な要人、学識者を含む虐殺だった。 いまでは毎年6月28日は、西カリマンタンの「悲しい日」と定められている』(PP.185~186〉。私たちにとって心に重く残る事実であろう。 〈文責 鳥海〉 〈編集後記〉 里親の皆様には、お変りございませんでしょうか。この第15号は1月中にお手許に届ける予定でしたが、諸般の事情により遅れました。 今回、インドネシアのお国柄を更に詳しく知る機会に恵まれました。地球が段々縮小しています。次回は草野理事長のインドネシア訪問記が楽しみですね。 上野
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