クリスチャン パートナーズ通信 第16号発行日/1993年5月1日 SACの子供たち草野理事長は、さる3月14日~16日ボンティアナックを訪問し、SACの子供達や現地で奉仕している人達との交流の機会に恵まれました。この号はその訪問記の特集ですが、これを一読されてSACプログラムやその背景について会員の皆様の理解が一層深められますことを期待しております。《待っていたカルティカちゃん》 「草野さん、カルティカがきている!」助手台のチャイさんの声が弾むように飛び込んで来ました。そして一瞬ヴァンの車内にホットした気持ちが流れました。 見ると、前方のセティアバクテイ(Setia Bakti)中学校の校門に小さい子がポツンと立っていました。途中で遭ったサムエル君が奥地のダヤックの村落までバイクを翔ばして、カルテイカを探し、中学校まで連れてきてくれたのでした。 急に何人もの大人たちに囲まれて、「日本にスポンサーがいることを知っていますか?」「兄弟は何人?」「お父さんやお母さんのお手伝いするの?」など立て続けに聞かれるとやっと今年2月で11才になったばかりのカルティカちゃんは、すっかり下を向いてしまって、頷いたり、小さい声で「ハイ」というのが精一杯。
「何か好きなお歌をうたってくれる?」。するとカルティカちゃんは幾分自信が出てきた様子で歌いはじめました。 これこそテープに入れて持って帰らなければと、下を向いだままの彼女の口許に懸命にマイクを当てたのでした。 《SACは宣教の原動力です》 チャイ氏は、同労のアンドレアス氏と共に、東西500キロ南北500キロに及ぶ3角形の西カリマンタン地域に散在する CNEC関係の教会、教会学校約50、中学校1校及び現在646名のSAC児童の管理や世話をしています。 ボンティアナックにあるCNECの事務所の2階に彼のデスクがあって、そこに古風なタイプライターが一基ありました。 SACは最も重要な宣教の力になっています。それは何よりも児童に対する教育の効果を挙げており、更にそれを通して子供たちの親兄弟に大きな影響力を与えています。
西カリマンタンの人口は、全体で250万、その宗教分布は、ムスリムが最も多く88%、ヒンズー教徒2%、仏教徒は1%、クリスチャンは現在8%であります。 SAC児童への援助金は宣教目的のための費用として、その全体の活動のために用いられています。 会計上の管理は、CNEC のシンガポール本部で行っていますが、1992年の西カリマンタンのSAC会計には、米国、日本、シンガポールから615名の児童のための援助金が合計で約9万1千シンガポールドル(1ドル=約72円)が寄せられています。 *CNEC(Christian Nationals Evangelism Commission)=Partners Internationalのアジア地区での名称。 《一行の編成と日程》 私達一行7名は、3月14日(日)ボンティアナック市内の諸教会を、朝、昼、夜3箇所訪問し、礼拝に出席しました。私の滞在が2泊3月に限られておりましたので、一行は翌15日は、東西約10時間を走って、スンガイピーニュ(Sumgaipinyuh)、ナーバン(Ngabang)サンガオ(Sanggau)等に立ち寄り、CNEC の中学校を視察して、その日のうちに、ボンティアナックの北約100キロのシンカワン(Singkawang)まで行って泊まりました。 シンカワン市は西カリマンタンではボンティアナックに次ぐ人口約20万の町ですが、CNECの関係では開拓中の伝道所が一箇所あるだけで、これからの地域であります。 実は、将来の日本のSAC児童は、この地域になるべく集中するように持って行ってはどうかという提案がシンガポール本部から出されていて、16日午前中に、私も是非視察しておかねばならないと思っていました。 ここで一行の中の次の3名の方をご紹介しておきましょう。 *チャイ氏 現地駐在者、先程紹介済。今回は、レイモンド氏の説教を殆ど同時通訳のようにインドネシア語に通訳しました。 *レイモンド氏 インドネシアで神学校卒業後、現在はシンガポールのBible Co11egeで 修士コース就学中で、卒業後は、西カリマンタンに赴任する予定とのこと。 *ポリヤンナさん シンガポール本部でSAC関係担当。 《SAC児童の生活》 この2日間、次の9人のSACの子供たちに会うことができました。 Kartika(宮沢意二)、Susan(岡田信子)、Linus(長岡))、HennySuSi(片山)、Derun(草野)、Yetna(小杉)、Maria(成田)、Sung Fi Cin(久保田)、Ajus(渡辺) 児童を良く知っているのは、その子たちをSACに斡旋してくる教会の牧師や、学校の先生たちです。 その場合は、家庭が貧しいというだけでなく、教会学校にちゃんと来ることそれに本人の素質も加味されます。私は、朝学校へ通学する児童の姿が清潔で親律のある雰囲気を持っていることを感じました。 小学生は赤、中学生は紺の制服をそれぞれ看て、白いソックスにきちんとした靴を履いているのが印象的でした。 それが、取り散らかした中国系の町筋とは対照的に、朝の町や村に、すがすがしい緊張を与えているのを、私はこの国の将来の可能性に結び付けて見つめていました。生活程度は段々向上していると聞いています。 それに伴い生活費や学費も高くなっているようです。従って、現金収入に余り恵まれない人たちの生活は相対的に低下しているのではないでしょうか。 その中で、学校に行く子供たちには、きちんとした姿をさせて出さねばならぬ親たちの気持ちがいじらしいように思われました。
《大自然のなかの人々》 ボンティアナックは丁度赤道直下で、3月は一番暑い季節です。多少曇っていましたが、表に出ると、やはりじっとしていても汗が出ますし、建物の中でも風通しの悪いところでは自然に汗ばんできます。 ところが午後になると、まるでバケツの水をひっくりかえすようなスコールに見舞われます。 この日もそうでした。行く手の空が真っ黒になって程なく車の窓ガラスに機閑銃の弾のような大粒の雨があたり始め、瞬く間に道路は川の中を走っているようになりました。太陽と水と生物。大きな自然です。 そしてその自然の秩序の中で無理をせずに生きていけるような生活をしている人達なのでしょうか。見ると、別に傘をさすわけでもなく、逃げ走るわけでもなく、道のへりを歩いています。 確かに濡れても別に大したことにならないようなものを着、履物を履いているのですから。水道も井戸も必要ないことは、毎日降るこの雨でわかりました。 私は、そんな生き方もいいもんだろうなと思いながら赤い西の空を見つめていました。雨が小降りになったころには、もう一面暮色に覆われていましたが、家々には豆電球が一つぐらいしか灯っていないようでした。 日が暮れると共に寝てしまうのでしょうか。夜でも児童の家を訪ねるのかな、などと想像していた私は、如何に現地を知らなかったのかが分かりました。 私はこんな環境の中に生まれ育ってきた子供たちに今度会ってきたのだなあと思いながら、色々な自然条件や文化的環境は違っても、どうか彼等が神様の恵みと福音を信じて幸福な生活を送れる人達になってもらいたいと思いました。 それにつけても、CNECの宣教方針として、その地元の人達の中から福音を伝えていける人を育て、本部はこれを資金的に支えていくことに専念しているやり方が納得できるように思えたのでした。 《郷里で伝道を志す人々》 ボンティアナックには、Mini-ETSI(The Evangelical Theologial of Indonesia)という国立の神学校があります。 これはジョクジャカルタにその本校がある神学大学の分校であります。自分の生まれた地域の伝道に志す聖職者を育てるためには、生活程度の高い都市の華やかなエリート大学は、必ずしも適当でないことも考え合わせて設けられました。 この分校には現在29名(内、CNEC関係は6名)の学生がおり、そのうち21名(内、同じく5名)が今年6月卒業する予定です。 学生は一週間に3日は町村に出て、教会創りの働きを義務づけられており、15名の授洗実績をあげることが卒業の条件の一つになっています。 SACの援助金はこのような事業にも活用されていますが、SACとは別にこのMini-ETSIを援助の対象と考えることも、現地に即した福音伝道を支える有効な方法でありましょう。 《シンカワン地域との新しい関係について》 今回シンガポールのCNECが、日本の新しいスポンサーには、これから開拓伝道をするシンカワン地区のSAC児童をお願いしてはどうかという提案をしたのには、こちらからの問題提起がひとつの契機になりました。 それは・・・ (1)今まで私たちが援助するSAC児童は西カリマンタン在住と限定してきたが、それでも広大な地域と不便な連絡方法のため、SAC児童と日本のスポンサーとのコミュニケーションは量質とも極めて限られ、心の通わぬ思いを禁じ得なかった。地域を狭く特定して、そこのSAC児童を優先的に日本のスポンサーに依頼することで、この状態はかなり改善されるように思われる。 (2)児童の写真や手紙がスポンサーに訴えるものをもっていることは確かですが、援助金がその地域の伝道活動にも用いられていることは既に報告した通りで、宣教の状況を具体的に伝えてスポンサーに援助のやりがいを感じていただけるようにするのが望ましく、そのためにも地域を特定するのが有効ではないか。 さて、侯補になっている部落の名はロバン(Roban)。人口4~5千人で、ダヤックに追われてきた人達のなかでも特に貧しい人達が住んでいるということです。金鉱での共稼ぎやスマトラへの出稼ぎなどをしています。 1年ほど前に伝道所の建物を借りて、その近くの約100所帯の児童400人のうち、教会学校には現在200人ぐらいが来ているとのことです。 私たち一行は、終始近所の住民の視線の中にありましたが決して不快な感じを受けるものではありませんでした。既に伝道の成果が現れているのではないでしょうか。 貧しくても見慣れた中国系の顔には親しみを感じさせるような眼差しがありました。その部落の中の世話役のような人が色々一行の質問に答えてくれました。 その人の家にも入りましたが、ローソクがちゃんと灯された小型の仏壇が目に止まりました。ボンティアナックのMini ETSIに再度立ち寄った時、このシンカワンを自分の伝道地区にしている女子学生リージャンゴさんに会ったので、「今あの地域の伝道で何が一番難しいですか」と尋ねたところ、「表面的には特に抵抗はないのですが、仏教徒の気持ちの底にある反発をどう扱っていくかではないかと思います。 今一番必要としているのは主のために働ける人です。」と答えてくれました。私には何か私たちと共通するものを感じました。 《ボンティアナックからの願い》 私たちの車は海岸に出ました。南中国海です。2日半の忙しい日程も無事に終了しようとしていることをチャイ氏に謝して、「日本のスポンサーに何かメッセージを」と頼みました。彼は、日本のスポンサーにもっと児童の信仰を激励する手紙を書いてもらいたいと言いました。 振り返ってみればその通りです。短くても良いのです。例えば、「今日教会でこんなお話を聞きました。とても心を打たれので書きました」、或いは「これは今日教会で読んだ聖書の箇所です。聖書を通して本当に神様の心を聞くことが出来たように思いました」といった調子ではどうでしょうか。 日本文で書いて下されば、事務局が、英語か、出来ればインドネシア語の翻訳をつけて送るようにします。スポンサーの写真など送って下されば嬉しいとはシンガポールのポリヤンナさんの言葉でした。 僅かな滞在期間でしたが、貴重な多くの体験、情報と共に16日午後ガルーダ航空でシンガポールヘ発ちました。 さて、この報告の最後に書き加えなければならないこと、それは、太平洋戦争中ボンティアナックで日本軍によって行われた2万人以上の中国系住民の大量虐殺事件*です。 この中国系住民のなかには、多くの知識人が含まれていました。この事件をいつまでも忘れることがないように、市の郊外の静かな林の中に記念碑が建てられています。 そこには、その時の有様をその儘に彫り込んだ20メートル程の石壁が造られてありました。その近くの木立のなかには、数カ所に砂が囲われた所があり、遺体が葬られているとのことです。 *通信第15号4ページ「本」参照。 草野計雄
インドネシア語ABC(4)前号に続いて疑問代名詞を紹介しましょう。 ★BeraPa?(ブラパ)いくら?(英語のHow muCh?How many?) Berapa harga buku ini?(ブラパ ハルガ ブク イニ) この本は値段いくらですか。 Harga buku itu lima ratus rupiah.(ハルガ ブク イトゥ リマ ラトゥス) その本は500ルピアです。 Berapa orang ada di sana?(ブラパ オラン アダ ディ サナ)そこには人が何人いますか。 Ada tiga orang.(アダ ティガ オラン) 3人います。 Berapa jam sekarang?(ブラパ ジャム スカラン) 今何時ですか。 Sekarang jam tujuh.(スカラン ジャム トゥジュ)いま7時です。 上記の文例Harga buku itu lima ratus rupiahでは、Harga buku itu(その本)と1ima ratus rupiah(500ルピア)を結ぶ繋辞、英語のisに相当する言葉がないが、これ自体完結した文章です。この場合、Harga buku itu ada-1ah lima ratus rupiahとしてada-1ah (アダラ)という動詞を入れる事ができるが、強調表現になり、ニューアンスが変わる。 その本の値段なるものは、500ルピアなのであるといった意味になる。 ★KemaPa?(クナパ)Mengapa?(ムンガパ)何故?(英語のwhy?) Kenapa(Mengapa)Bapak Hassan tidak datang?(クナパ バパ ハッサン ティダ ダタン) 何故ハツサンさんは釆なかったのですか。 Dia tidak dating karena sakit.(ディア ディダ ダタン カルナ サキッ(ト))彼は病気で来ませんでした karenaは英語のbecause(of)に相当、Sakitは病気、苦痛の意味。 ★Kapan?(カパン)Bila?(ビラ) いつ(英語のwhen?) Kapan(Bila)Tuan Yamada berangkat?(カパン トゥアン ヤマダ ブランカッ(ト))山田さんはいつ出発しますか。 Dia berangkat besok pagi.(ディア ブランカッ(ト) ベソ パギ)彼は明朝出発します。 berangkat は出発する、datang は到着するの意味。 ★Di mana?(ディ マナ)何処に(英語のWhere?diは場所を表す。英語のatに相当) ★Ke mana?(クマナ)何処へ(英語のTo where?keは方向を表す。英語のtoに相当) ★Dari mana?(ダリ マナ)何処から(英語のFrom Where?dariはkeの反対。英語のfrom) Di mana anda tinggal?(ディマナ アンダ ティンガル)貴方は何処に住んでいますか。 Saya tinggal di Medan.(サヤ ティンガル ディ メタン)私はメダンに住んでいます。 Tuan,ke mana Sekarang?(トゥアン ク マナ スカラン)トゥアン、今何処へいらっしゃ るのですか Dari mana tuan dating hari ini?トゥアンは、今日何処からおいでになりましたか。 上例のke mana sekarang?は、インドネシア語らしい簡潔な表現ですが、hendak ke mana sekarang?としてhendak(ンダッ(ク))(・・・の積もり)を加えると丁寧な表現となる。 tuanは目上の男性、特に外国人に対する敬称。 シンガポールからのニュース シンガポールCNECニュース1/2月号によりますと、ポール・チャン牧師は米国での3か月間の出張業務を終えて昨年末帰任されました。
同氏のアジアに於ける永年の奉仕活動が顕彰されて、12月18日カリフオルニア州のビオラ大学から博士号が授与されました。 1月25日には、チャン牧師/博士はアーサー・ギ一牧師及びウィリアム・ホー博士と共に2週間の予定で、北タイに回訪と訓練計画のために出張されます。 <編集後記> ・草野理事長の訪問記を一読されてご感想は如何でした。コメントやご質問がありました ら事務局にお寄せください。 ・スペースの都合で、今回は「新入会員紹介」は割愛させていただきました。(松本記) |