クリスチャン パートナーズ
通信 第34号
発行日/1998年2月17日
宮澤玲子
鳥海百合子
1月4日の夕刻、シンガポール空港には※CNEC事務所のSAC責任者アイリーン・イークさんとストウ氏が私たちを出迎えて、ホテルまで送ってくださいました。
正月の日本から常夏の国に到着して急激な気温の変化にとまどいながら、翌朝はお二人の案内で珍しい蘭の咲き乱れる植物園を散策し、次いでCNECの事務所を訪ねました。
前日マレーシアから戻られた所長のチャン師と女子職員6人が出迎えてくださり、私たちと同行するスイケンさんがジョホールバルから到着して、全員で昼食をいただきました。
通信第32号の「西カリマンタン訪問」を書いたミン・ワさんは、三年前から学んでいる日本語で食前祈祷をして下さいました。
チュア・スイケン(Chua Suikheng)さんは神学校卒の三十代の女性で、マレーシアCNECのSAC責任者です。
運転をしてくださったストウ氏はテープライブラリーの責任者で、説教や聖書研究のテープがぎっしりと壁を埋めている部屋を拝見しました。
1時間遅れと通知されたムルパティ航空のポンティアナック行きが、2時間遅れて出発した時の機内の暑さは相当なもので、小さなジェット機に乗客は20人あまりでした。
空から見たカリマンタン島は緑濃く、何本もの川がその中を曲がりくねって流れていました。
ポンティアナック市の周辺では奇妙な眺めでした。
空港の税関についてはアイリーンから注意を受けていたので、私たちは緊張して出来るだけ早く荷物を持って外に出る努力をしました。
アイリーンのカバンが調べられましたが文句は出ず、迎えに来ていたポンティアナックCNECの職員たちが瞬く間に私たちを車に乗せて事務所まで運んでくれました。
※Christian National' s Evangelism Commissionの略で、パートナーズインターナショナルの旧名称。アジアではまだこのまま使われている。
95年に草野さんが訪問された時、チャイ師の助手を務めていたアケン(Aken)がSACの責任者になっていて、習いたての英語で苦労しながらいろいろ説明してくれました。
CNECの事務所はミニ神学校の校舎の一室にあり、到着した私たちを神学校に住む教員たちが出迎えて下さいました。
クリスマス休暇で学生たちはいませんでしたが、1995年に日本からも20万円を献金して購入した建物が、有効に用いられているのを見ることが出来ました。
ほとんどの学生が地方出身なので校庭に寄宿舎を建てたいと思っていると、教授であるオミ牧師が話してくださいました。
翌日からの旅程の打ち合せをして、ジョセフ牧師の車でホテルまで送って頂ました。
<西カリマンタン州>
<ポンティアナック→サンガウ 267km>
<サンガウ→シンカワン 312km>
<シンカワン→ポンティアナック 145km>
1月6日はまず赤道塔の見物にポ市の東北方までドライヴ。今日からは、アケンが雇った運転手付きのオンボロ車です。
一応舗装はしてあっても穴だらけの道路を、人・バイク・ベチャを掻き分けるようにして時速80kmでつっ走るのですから、いつ事故に遇うかとはらはらし通しの四日間になりました。
赤道塔はオランダ人が作った赤道の位置を示す塔で、ポンティアナック市の観光名所の一つです。
左端ウィル スンガイラヤ教会 右端オミ牧師 |
市内へ戻る途中、建設中のアケンの新居に立ち寄りました。
一直線に走る泥道に平行して電柱が並び側溝が掘られた新開地の一角に、彼の家がありました。
まわりも新しい家々でクリスチャンが多いから、家で集会が開けるのではないかとアッケンは期待していました。
お金があれば電気は引けるそうですが、側溝には傾斜がなく、汚水がちゃんと流れるようには見えませんでした。春には赤ちゃん誕生とのこと、若いアケン夫妻の幸せを祈りました。
その後、ポンティアナック博物館で先住民の文化を物語る品々を観賞し、かつてジャングル中でダヤク族が大家族で暮らしていた長大な家屋(ロングハウス)を見物しました。
午後は、ポ市の東北の郊外スンガイラヤと周辺のベルカイ、チュリアに、オミ牧師を中心にウィルとジョコーが指導する三教会を訪ねました。
教会は長屋式の商店街の一角であったり、軒を列ねる平屋住宅の一軒であったりで、まだクリスマスの装いのままでした。どの会堂も呼び集められた子供たちで溢れ、私たちはキャンディを配りました。
コタバル教会の生徒たち |
コタバルはポ市の南側で、ここの教会は住宅二軒をつなげた広い会堂を持ち、ユスフリアヌス牧師が教会学校の生徒を集めて待っていました。その中に日本の里子が三人いて、アイリーンが用意してくれた文房具のセットをお土産として渡しました。
私たちがインドネシア語でクリスマスの賛美歌を歌うと、子供たちはうれしそうに元気いっぱい唱和してくれました。
参加者全員が私たちを握手するため長い列を作り、戸口や窓からは沢山の人が覗いていました。
この辺りは中国系の人々が多く、インドネシア語で行われる説教を客家語(中国語の一つ)に訳すボランティアの青年にも会いました。
三人の里子 |
スリアント ジョニ リナ |
7日は早朝にポ市を立ち、サンガウ市までの長旅の始まりです。一行はアイリーン、スイケン、私たちに、案内役のアケンとアンドレアスの六人。
アンドレアスはCNECの宣教部の職員で北京語を話し、アイリーンとのコミュニケーションが自由なので、英語に自信のないアケンが同行を依頼したのです。
アイリーンは北京語、広東語、英語が出来ますが、インドネシア語は解りません。スイケンは北京語を話しマレー語に近いインドネシア語はなんとか解る程度。
私たちは英語に頼るしかないというわけで、一行の中では四ヶ国語が飛びかうことになり、何事も漠然と見当を付けるしかありません。
ポ市を貫通するカプアス川には橋が一本しかなく朝夕の混雑は大変なもので、郊外に出るまでが一苦労でした。
アンジュンガン神学校に大田先生ご夫妻を訪問したのは午前10時ごろでした。突然、多数で押し掛けたのですが、丁度学校はお休み中で、歓待して頂きました。
韓国の技術者が井戸を掘ってくれたのでと、豊かな水量の流れを喜んでおいででした。この地では清潔な水は貴重ですから、先生方の生活が改善されたことを私たちも喜びました。
大田先生ご一家に別れを告げ、次に寄ったのはマンドール記念公園。ここは、日本軍に虐殺された中国系の人々(1942-45)を埋葬してある所で、私たちはアンドレアスが用意してくれた菊の花束を捧げて黙祷しました。
西カリマンタン州は五つの県に分かれていて、サンガウ市は県庁所在地なので、ポンティアナック~サンガウ間の道路は舗装してありますが、片側一車線で、田圃、野原、椰子園、学校、小さな集落の間を曲がりくねって走っています。
ポ市とその周辺はまったく平坦ですが、内陸に入ると丘陵が視界に入ってきます。
大きな荷物を背負ったり頭に載せたりしている人々や自転車、モーターバイク、学校に通う制服の子供たちが通る歩道のない道路を、車内に人を屋根に荷物を満載した長距離バスが、猛スピードで私たちの車とすれ違い、たちまち後に消えていきます。
マレーシア領のサラワク州から、国境を越えて来るバスもあります。こちらも80kmから100kmを出しているのですから速さだけは日本の高速道路並み、私たちは居眠りも出来ないほど堅いシートの上で、ただただ無事を祈っていました。
里子のジョン |
ガバンは、広場を商店街が囲みバスの乗換場もある大きな町でした。昼食を済ませた私たちは、昨年火災にあったインマヌエル教会を訪ねました(第32号参照)。
バクリ牧師は友人宅で教会の活動を続けていて、日本の里子二人を含む十人程の子供たちを集めて待っていました。
右端は里子のソピアナ |
再び車に戻り、ボドクでアケンの弟の家に寄ってから幹線道路を離れ、南下してセティアバクティ中学校へ向かいました。
中学校は広々とした校庭の一角に、大きなガラス窓を持つ校舎が建っていて、清潔な制服を着た生徒たちは、私たちを見ようと廊下で押し合いへしあいの騒ぎをしていました。
ピオン アケン ヤント ヘルクラヌス マルクス 宮澤 エティ |
まず通された校長室のテーブルには、さまざまな熱帯の果物が積み上げられていて、私たちはランブータンなどを初めて味わいました。
ここには日本の里子が五人いて、教室でゆっくり会うことが出来ました。
セティアバクティ中学校 |
左端校長先生 右端アケン |
アケンはここの卒業生でSAC児童としても彼らの先輩になるので大張り切り、私たちの挨拶をインドネシア語に訳しながら、自分の言いたいこともたっぷり加えていました。
里子たちには、各々の里親について簡単に紹介し、質問がないかと聞くと、積極的なヤントが私たちの住所や職業などをいろいろ尋ねました。
小柄な子供が多いようでしたが、里子たちは非常に賢そうで、しっかりしている印象を与えました。
校長先生はおだやかな自信に満ちた女性で、学校が好調に運営されている様子が感じられました。
その間に、校長室には食事の用意がされていて、折角のご好意をお断りも出来ず、大急ぎで一口だけいただき、先生生徒全員が校庭に出て見送る中を出発しました。
ボドクへ戻る途中、プロンタス村の小さな教会によりました。現在使われている会堂は四角い箱に屋根が付いたような建物ですが、その隣りにはこの地方独特の建築様式に従った立派な会堂が建ちかけていました。
ここには日本の里子は居ませんでしたが、全員と握手して別れました。
次はセボテュ村で、新しく里子になった小さな女の子デュヴィアナがいました。
二三十人の子供たちと、赤ちゃんを布で肩から吊るすように抱いた若い母親たちに見送られて出発。
アケンの弟がモーターバイクで走り回って、これらの教会に私たちの来訪を報せてくれたのでした。
セボテュ教会で、宮澤の挨拶を熱心に聞く教会学校の生徒たち |
サンガウ市に入るとすぐ、ひだ手の岡の上に大きなサンガウ教会が建っていました。
オーケー牧師夫妻の歓待を受け、里子二人と教会学校の子供たちが待つ会堂に入りました。
オーケー牧師は、高等学校に入るため地方から来るクリスチャンホームの少年たちが、イスラム教徒の家に下宿すると信仰を失うことが多いので、教会の隣に寄宿舎を建てたいと語っていました。
暗くなってようやくホテルに着きました。国際水準のポ市のホテルとは大違い、浴室には水槽とひしゃくがあるだけで、この国に生活様式を経験する機会となりました。
サンガウ教会 |
左端里子のフェリ 里子のスシ |
運よくクーラーは働いていて、日本から持っていた蚊取線香が一晩中活躍してくれました。
(内陸に入るとマラリヤの危険地域になるので)
翌朝は六時半に出発、途中ガバンで朝食を取り、西へにしへとひた走り。
スンガイピニョからは海岸に沿って北上し、312kmを走りきって昼にシンカワン市に入りました。
(ロバン村訪問は次号に)
リーフレットに願いを託して 理事長 新しく制作リーフレットを「通信」と一緒にお送りします。旧版の、昇る太陽を背に元気な子供の顔を配し、生活の様子を紹介したものも好評でしたが、在庫がなくなりました。今回は教会学校の写真や地図を入れて、皆様の援助金がどのような所で用いられているかをご報告いたします。 周囲の方々にお薦めいただければ幸いです。 |
本 『信仰と希望と愛 ―南十字星のもとにて―』
安海靖朗・道子 共著
一粒社 1000円(税別)
読み終わったとき私は、そこに旧約聖書の叙事詩の世界が広がっているような感動を覚えました。
著者の言葉によると「『はギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を背負っています』(ローマ1:14)という聖句に迫られ、神より「インドネシアの人々に吹くオンを宣べ伝えなさい」といわれたことを確信して、私ども家族(当時、妻道子と長女直子二歳、次女実枝九ヵ月)は1972年より17年間、インドネシアの未開地カリマンタン・東ジャワ島・ジャカルタへ行き、宣教師として奉仕しました」とあります。
当時、電気もガスも水道もない奥地の町シンタンに着任されてから、ご家族が次々と亜熱帯特有のマラリヤ、デング熱に罹られ、癒されたこと。
村々への伝道の途上、奥様と三歳のご長男が乗られておられた伝道船が夜中に出火し、幅千米深さ20米の河に飛び込まれたのに奇跡的に救けられたことなど、インドネシアでの出来事やお働きを通して、今も生ける神さまが共にいまし、導き、働いて下さっていることを、私も心から信じることが出来ました。
お子さんたちが奥地で、野生の鹿や猿オランウータンと遊んだり、ジャングルの中でターザンごっこに胸踊らせて、スケールの大きな遊びを楽しまれたこと。
七年間もお父様が校長でお母様がずっと担任だった「安海学校」で、三人のお子さんの教育をなさったお話しなど、今の日本では想像もつかない、でも生き生きとした羨ましいようなご家族の姿が描かれていて、心に残りました。
今は立派に成人されたお子さん方は、お父様にならって宣教のための勉強をしていらっしゃいます。
特に次女の実枝さんは、忙しい勉学の傍ら、SACの里子からの手紙を日本語に訳すことで、クリスチャンパートナーズを助けてくださっています。
現在安海先生は、アンテオケ宣教会国内宣教師・総主事としてのお働きとともに、「インドネシア語教会」で牧会をなさっています。
この説教集は「最も大切なもの(愛について)」「心に新しい光を」など、実際の出来事を通してわかりやすく説かれています。
草 野 道 子
【理事会報告】第94回理事会は1997年12月19日一ツ橋学士会館で開催。
顧問安海靖朗牧師に西カリマンタンの近況を伺う。
前回議事録承認。1997年10月・11月度会見報告承認。
通信第34号は、宮澤・鳥海理事が西カリマンタンから帰国後にその報告を入れ、松本理事の国連ボランティア年に関す記事、草野道子理事の書評などで、2月中旬に発送予定。
新リーフレットを同封。新設の「進学奨励金」の使途について協議。
第94回理事会は1998年2月6日一ツ橋学士会館で開催。前回議事録承認。
1997年12月・1月度会計報告承認。宮澤・鳥海理事出張報告。通信代34号原案検討、2月17日発送予定。
ロバン教会の借地購入費に関する援助要請について協議。その他。第95回理事理事会は4月17日(金)一ツ橋学士会館で開催予定。
〈編集後記〉ポンティアナック出発の朝、やっと現地の地図を手に入れました。この大都市の全貌が俯瞰できてホテルや神学校の位置が分かり、私たちがどのあたりを旅したかもはっきりし、皆様に正確な報告が出来るようになりました。
森林火災の被害を目にすることはありませんでしたが、大田先生の所では白煙で全く視界が閉ざされた日々があったそうです。
通貨ルピアが急落し、里子たちの生活に悪影響を与えるのではと案じられます。
悪い風邪にご用心ください。
(鳥海百合子)