クリスチャン パートナーズ
通信 第47号
発行日/2001年2月17日
辺境の町タチレーク訪問 ―タイ・ミャンマー国境≪ゴールデントライアングル≫で―
草野理事長
北タイの静かな保養地、チェンライでの評議委員会終了の翌日、会議参加者9名は、国境を越えてミャンマーのタチレーク(Tachi laik)を訪ねました。
海抜1200mの山岳地帯を車で約1時間、人と土埃と雑多な商品でごったがえす町では、入国管理事務所もその雰囲気の中にありました。しかし道路の両側に商店が整然と並ぶところもあって、特異な活気に溢れていました。
ご存じのように、この辺りは世界が注目する麻薬取引の盛んなところです。
私たちが最初に訪問した緬旬キリスト教会と養護施設は、1995年にCNECが設立したもので、町の中心街から離れた所にありました。
周りには正視に耐えないような住居もある地域でしたが、施設の子供たちが来客に挨拶しカバンを自分のベッドに置いて集会所に集まってくる様子に、躾のよさが感じられました。
現在ここには50名が暮らしていますが、収容できない子供たちが町中で悪事に引き込まれていくのを見るのはつらいと聞きました。
集会所では代表に児童が証をし、つぎに全員で賛美歌を歌ってくれましたが、その歌声は私たちに感動を与えました。
彼らにとって一番自然で嬉しい自己表現の機会のように見えました。
「麻薬商売が悪いとわかっていても、それなしでは生きていけない」という社会に、この子供たちはどう立ち向かっていけるでしょうか。
養護施設に住む子供たち |
※後方左はシンガポールのチャン師 |
次に訪ねたのは町外れの広大な未開発地で、そこには篤志家によって開設された手作りのような教会・寄宿舎・学校がありました。
「恩盃福音戒毒中心」という言葉が教会に揚げられていました。
質素な教会堂に集まった子供たち |
表向きは信教の自由が憲法で保証され、仏教寺院からも民衆からも反対はないと言われていますが、開拓者であるヨン・テン氏は親の反対を押し切り、政府の弾圧に屈せず、この地での奉仕に「召命」を見いだしたと言っていました。
麻薬による先天的発育障害で身長が子供のままの青年を、彼は養子として世話しています。
そこから又少し走って、まだ建設中の建物を見に行きました。
コンクリート3階建ての大きな施設で、教会・教会学校・牧師館などが入る予定とのことです。これはオーストラリアとシンガポールのPIからの寄付によるものです。
私たちもミャンマーの子供たちに明るい希望のある生活を贈る活動に、少しでも参画したいものだと思いながら眺めました。
西カリマンタン再訪記 続き
宮澤玲子
鳥海百合子
今回は海沿いの幹線道路ではなく、峠をいくつも越えていく曲がりくねった山道を、近道という理由で運転手のヤンさんは選べました。
舗装は比較的よく、緑深い中を行くのは日光の「いろは坂」を思わせるドライブでしたが、この裏街道が最初は日本軍の占領時代に作られたと聞いて、ちょっと複雑な気持ちにさせられました。
村に近づくと田圃が広がり、稲刈りに勤しむ人々の姿が見えて日本と大差ない風景ですが、隣りの田には青々と育つ稲があり、向こうは田植えをしたばかりで、三毛作のできる気候だとわかります。
舗装道路はたいがい村の中央を走っているのですが、どういうわけか犬や豚の親子がその真中に寝そべっていて、その上ひよこを連れた雌鶏やあひるも歩き回っているので、追い払いながら走るのにヤンさんは苦労しました。
私たちは大慌てで逃げ出す動物たちの姿にははらはらしたり、事故にならずによかったとほっとしたりするのでした。
ロスマディ、その弟(前列)、ジョン(後列) 教会学校の生徒たち |
昼近くにナンバンに到着、さっそくイマニュエル教会に行きました。
前回お訪ねした時はバクリ牧師がいらして、商店街の火事で中にあった教会も類焼、信者の家で集会をしていましたが、今回は商店街も建てなおされ教会もきれいになっていて、以前コタバル教会でお会いしたユスプリアヌス牧師が待っていてくださいました。
里子のジョンがマラヨノ伝道師に付き添われて、遠くの村からバスに乗って来ていて、再会できました。
ジョン |
前回は人なつこく私たちにつきまとっていたのがすっかり成長して、口もきかず沈んだ表情をしていて気になりました。
もう一人の里子ロスマディは父親と弟と一緒に来ていました。
ロスマディと父親 |
会堂の中には教会学校の子供たちが十人近く集まっていて、にこにこと私たちを見守っていました。
イマニュエル教会には会員18家族、教会学校には65名出席、中高生グループには25名、35名程の青年会は週二回集まって重病の仲間のために祈り続け、その回復を喜んでいると聞きました。
遠隔地に住む子供たちのために、高校のあるこの町に寄宿舎を作りたいとのこと。
この辺りはダヤク族とムラユ族が多く農業・漁業を生業とし、中国系は少なくて商業に着いているそうで、教会ではみな協力的とユスプリアヌス牧師が説明してくださいました。
2階は牧師の住居と集会室で、地域の教会指導者たちの研修会が行われていましたが、その中にシンガポールで一緒に勉強した友人を見つけてティティワは喜びました。
赤ちゃんを抱きながら教会学校の教材を用意している女性もいました。
里子たちと一緒に商店街の一角にある食堂で昼食を取った後、私たちは二手に分かれ、アイリーン・ティティワ・アケンはヤンさんの車で奥地のスカダウに建設中のCNECの養護施設を見に行き、私たちはバクリ牧師と、タクシーでポンティアナックに帰ることになっていました。
教会学校の生徒たち |
私たちの荷物だけ載せてどこかに行ってしまったタクシーが、1時間ほどして戻ってきた時には、運転手の他に男性が3人乗っていました。彼らはバクリ牧師とは顔見知りのようでした。
出発すつとたちまち百キロ近くの猛スピード、中央分離帯もない道路を突っ走り始めました。
村を過ぎるときは警告を鳴らし続けて、人も動物も両側に薙ぎ倒す勢いで飛ばします。
途中、ものすごいスコールが来て前方がほとんど見えなくなった時も、まったく意に介しません。
ヤンさんの慎重な運転とは雲泥の差、シートベルトも無く、私たちは掴まるところを探して必死でしがみついていましたが、バクリ牧師は心地よげにお昼寝。
前回の車より新しくしっかりしてはいたものの、対向車が同様の速度で迫ってくる時は思わず目をつぶり、寿命が縮まる経験を繰り返しました。
ようやく赤道塔を右に過ぎてポンティアナック市が川向こうに見え、唯一の橋のたもとまで来た時、車の流れが止まりました。
運転手とバクリ牧師が様子を見に外に出て、やがて車は回れ右。
何か事件が起きて警察の手で橋が封鎖されたのだそうです。
バクリ牧師は車をフェリーの船着場まで行かせ、私たち三人は荷物を持って桟橋へと向かいました。
そこには、中央に船橋が建っているだけの巨大な筏のようなものが止まっていて、何百台のモーターバイクと何百人の乗客がひしめきあってわれ先に乗り込もうとしていました。
どこが入り口かもわからず、ただ人の流れにもまれもまれて行き着いたところは船体の端の方で、転倒防止の鉄柵の間を擦り抜けて船内に飛び込む以外なく、私たちは船底の深さも分からぬまま、まず荷物を放りこんでから飛び降りました。
1m余もあったでしょうか、とにかく足も折らずすぐ立ち上がることが出来、太目のバクリ牧師が鉄柵の間を苦労して抜けるのを助け、その間私たちのスーツケースを支えてくれてくれた親切な小父さんに礼をいって受け取った時、船は動きだしていました。
私たちは顔を見合わせ、敗戦直後の国鉄の混乱状態を、通学に窓から乗り降りした経験を思い出しました。
人々の肩越しに雨期で満々と泥水を湛えたカプアス川がちらちら見えます。
積載定員数など誰も頓着せず乗れるだけ乗っているこのフェリーが、川の中程で沈みだしたら…。周りの人々の表情からは、心配しているのは私たちだけのようでした。
向こう岸に着くと人々はまた奔流のように降りていきます。
バクリ牧師が必死にタクシーを探してくださり、やっと乗り込んで一息つく間もなく、運転手は「道路が封鎖されていてホテルには行けない」と言うのです。
牧師は携帯電話で情報を集め、しぶる運転手を導いてようやく私たちを送りお届けてくださいました。
そして暗くなる前にと急いでそのタクシーでCNECの事務所に戻られました。
ホテルの中は静かで何事もないように見えましたが、警察か軍隊が制服を着た人をホールやエレベーターで多く見かけました。
テレビに騒乱の様子が映っていて、所々で火事が起きたりしているようでした。
後日聞いた話では、そもそもの原因はマドラ族のバス運転手とバイクに乗ってムラユ族の少年の間の交通事故だったらしいのです。
カリマンタン島の先住民であるムラユとダヤクは、移住してきたマドラとは反目し合っていて、些細なことでこのような騒乱になる火種はいつもあるのです。
ムラユとダヤクはかならずしも仲が良いわけではないのですが、マドラに対しては手を組むのです。CNECの事務所はマドラ人の住居地区に近く、騒ぎが起こるとすぐ危険になります。
数年前にも、ダヤクだというだけでアケンが追われ、しばらく知人宅に身を隠していたことがありました。
翌朝、ホテルの門まで美しい花壇が両側にある100m程の道を歩いて行って外の様子を窺うと、鉄砲を背負った若い兵士が数人立っていて、すぐ前の大通りには警官が多数出て交通を制限していました。
その日私たちは、ナバンで別れたアイリーンたちが事務所に戻ったら、一緒にコタバル教会を訪ねる予定でしたが、バクリ牧師から彼らがいつ帰ってくるか不明との連絡があり、心配しながら電話の側を離れず待ち続けました。
一方アイリーンたちは、橋が封鎖されたフェリーも運航を止めたと聞いて、カプアス川上流のヤンさんの出身地に向い、彼の友人に頼んでモーターボートでポンティアナックまで下るという方法をとりました。
途中、大きな船とすれ違って何度も波をかぶったそうですが、どうやら市内の船着場にたどり着き、タクシーなど走っていないので荷物を背負って事務所まで歩いたとの報告が夕方になって入りました。
ヤンさんは、橋が通れるようになるまで車ごと郷里に留まりました。
電話で互いの安否が確認できましたが、道路はあちこちで封鎖されていて、コタバル教会訪問は無理とわかりました。
事務所周辺も不穏な状態なので、外国人であるアイリーンとティティワを私たちのホテルに送り届け、4人が一緒になったほうが良いとの判断が下され、バクリ・オミ・アケン他3人の事務所職員が、計6人が5台のモーターバイクに分乗して彼女たち二人と荷物を護衛し、ようやくホテルに到着したときにはもう暗くなりかけていました。
途中、警察に阻止されて行き着けないのではないかと思って時、オミ牧師の機転で軍の将校を見つけて「外国人だから」と懇願し、その人が自分でバイクで先導してくれてので、無事ホテルに到着できたのだそうです。みんな興奮していました。
全員がそれぞれの言葉で感謝の祈りを捧げ、最後にバクリ牧師が祈られましたが、その声は途切れがちでした。
部族間の騒乱がどのような結果をもたらすものか全く知識のなかった私たちは、自分たちがどんな危険の中を幸運にもすり抜けて来たのかを、初めて知ったのでした。
4人の外国国籍女性を保護し、無事に国外に脱出させるという重責を負ってしまったバクリ牧師がどれほど心配されたことか。
夕食をご一緒にと申し出ましたが、遅くなると危険が増すからと、全員バイクを列ねて帰っていかれました。
翌朝アケンから電話があり、昨夜はみんな事務所に泊まって、今朝それぞれ家に帰った、家族は無事とわかりました。
私たち4人は9時すぎに空港に向かいましたが道路のあちこちにバリケードの残骸や火事で焼けてあとが残り、車はそれを避けながら走らなければなりませんでした。
空港は何事もなかったように落ち着いていて、飛行機はあまり遅れもせずに飛び立ちました。
バクリ牧師ってどんな方? (Bakri Lie) ~インターヴュー~ 『私は9歳の時に父を亡くし、家が貧しかったので母は焼き菓子を作って売り、生計を立てていました。 CNECで働いていたダニエル・チャイ師が、私を教会に連れていってくれ、小学校・中学校とSACのお世話になり、高校・神学校はCNECの奨学金で勉強できたのです。SACにはとてもとても感謝しています。 1993年に神学校を卒業し、5年間ナバンで伝道牧会をしました。今はポンティアナックで、CNEC事務局の責任をとり、コタバル教会の牧会をしています。』 太めで一見屈託のなさそうな風貌、普段はおだやかな話ぶりですが、三言語(北京・客家・インドネシア)で熱烈な説教をなさいます。 中国系なので名前は漢字で「李雲言」と書きます。 彼に与えられたタラントを見抜いたチャイ師の慧目に脱帽。 草野理事長が最初に西カリマンタンを訪問された時、案内したのがチャイ師です。すばらしい、生え抜きの指導者を得た西カリマンタンCNECの将来に希望が持てます。SAC奨学金がこのような形で成果を見せていることを知るのは、私たちを勇気づけてくれます。 |
それぞれの冒険談を語り合って無事を喜んでいるうちに、プロペラ機は緑濃いジャングルと茶色の水が流れる曲がりくねった川の上をゆっくり飛んで、45分の短い旅はマレーシア領クチン空港で終了。
シンガポール行きが出るまでの9時間を、ティティワの神学校時代の友人リム牧師のお宅で休ませていただきました。
クチンは清潔で花の多い美しい都市で、ご家族と川沿いのお散歩道を歩き、おいしい夕食をご一緒しました。
同じ島の北と西にある二つの都市ですが、属する国が違うためか印象はずいぶん異なります。マレーシアー美しいと言われるクチン(kuching 猫という意味だそうです)と競えるような都市に、ポンティアナックもなってほしいと思いました。
同夜、無事シンガポール着。
「終わり良ければすべてよし」ですが、希有な経験をした旅でした。
鳥海、アイリーン、ティティワ、宮澤 マレーシアのクチン空港で |
アケンと長女モーリーン 自宅前で |
翌朝10月28日、私たちはタイの北部チャンライでの会議に出席のため、バンコクへと飛びました。
【理事会報告】第112回理事会は2001年1月19日(金)一ツ橋学士使会館で開催。
前回議事録承認。2000年11月12月度会計報告承認。
通信第47号を2月17日に発行することにして「会員の集い」のお知らせを再度同封する。
第48号は「会員の集い」の報告を主な内容とし、講演内容は岩崎理事が記事とする。
「会員の集い」のプログラム等の協議、役割分担、準備の打ち合せを行う。
ホームページへの通信の掲載を専門家に依頼。
各国PIからの緊急援助要請への対応の仕方を考える。
バクリ、アケン両氏のクリスマスカード披露。新会員1名、新寄付者2名。
第113回理事会は2001年3月16日(金)一ツ橋学士会館で開催予定。
〈編集後記〉ナバンの神風タクシーをご紹介しましたが、運転手さんの名誉のために付け加えると、彼は「教会のご用だから」と言って料金を受け取らなかったそうです。
日々の宣教活動が言葉どおり生命の危険と隣合せの国々で、福音を伝え人々の生活の向上に努力している方々があることを、いつも祈りの中に覚えたいと思います。
私たちのささやかな献金も、その方々の手で有効に使われているのです。
今冬は雪が多いようですね。寒さのなかくれぐれもお大事に。
2月24日(土)皆様のおいでを心からお待ちしています。
(鳥海百合子)